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パラス・デ・レイ(Palas de Rei)⇒レボレイロ(Leboreiro)⇒メリデ(Melide)⇒ボエンテ(Boente)⇒カスタニェーダ(Castañeda)⇒リバディソ・ダ・バイソ(Ribadiso da Baixo)。約24㎞。
7時45分頃バルに行くと、まだ開いていなかった。8時になっても開く気配がない。部屋代をまだ払っていず、鍵も返さなければならない。8時15分まで待って部屋に戻った。サンティアーゴまでまだあと数百キロというようなところでは、目的地は現実離れしたものでしかなかったが、歩いて行くに現実的な距離になってからはなんとなく急ぎたいという気分が強くなっていた。あと30分も待てばバルは開くかもしれないが、その30分が待ちきれなかった。これまでの経験からこの部屋では25ユーロで十分だと思ったが、念のため2泊分60ユーロを椅子の上に置き、その上に鍵を載せて部屋を出た。 歩き出してすぐ、きのうの夜、食事が終わってレストランを出ようとして出会った韓国人親子に追いつかれた。あす、次のアルベルゲでゆっくり話しましょうといって別れたのだが、その機会が早くもやってきた。28歳の青年とその母親。レストランで顔を合わせたときは、どちらからともなく英語で話しかけ、すぐにそれしか通じないことが分かった。 後半の行程に入った頃から、韓国のあるTV局がかなり大規模な取材に来ていて、よくその噂を聞いていた。彼らの通過した数時間後に私がその場所に着いたというのがおそらく最も接近した時であった。それだけでなく、アルベルゲに残されている記念帳などにも、ハングルで書かれたものの方が日本語のものよりもかなり多いというような印象があった。 青年はドンジンといい、母親が来たいからというので一緒に来てあげたという。韓国ではキリスト教徒の割合が70パーセントあり、この巡礼のことも日本よりはずっとポピュラーな存在になっているのだろう。ドンジンの母親もクリスチャンで、彼には牧師になって欲しかったらしいが、彼はキリスト教が大嫌いだといっていた。母親はにこにこしているだけだったが、やはり足が相当に痛そうだった。(写真1) (写真1) 母親は痛い足を引きずりながらなんとかドンジンの後をついて歩くというような風情だったが、その速さにさえも私はついていくのが辛く、しばらくして二人から離れた。だがすぐに、その私が追い越そうとしてしまうほど疲れ果てたような歩き方をしている男性に出会った。いつか、大きな声で大丈夫かと声をかけられたときの私もさもありなんといった歩き方だった。ドイツ人で、トマスという名の30代半ばの男だった。 メリデという街に着き、どこかで食事をしようとした。パコが、この街に着いたら忘れずにタコ料理を食べるようにと店の名前まで教えてくれていたのだが、なにかの行事でもあるのか、街全体がとても賑わっていて、タコ料理の店も満員だった。仕方なくトマスと一軒のバルに入った。私はスパゲティを注文し、トマスはピザを頼んだ。トマスは役者をしているという。表の方ばかり気にしているのでどうしたのかと訊くと、この街でルドルフという男と待ち合わせることになっているという。建築家だという。 てっきり私よりずっと先を行っていたと思っていたのだが、ルドルフはバルセロナで10日間ほど過ごしていたのだという。いくらカミーノでもこんなことは珍しいだろう、1ヶ月以上も間のあいた再会だった。モンレアルで会ったときはまだベルリンでの仕事のトラブルが尾を引いていたのか、どことなく沈んだような雰囲気だったが、カミーノを歩く間にそれも癒えたのだろう、ルドルフはとても明るくなっていた。韓国のTV局の取材に一日付き合わされ、インタヴューも受けたといっていた。自分よりずっと若そうなトマスともよく気が合うようだった。私にはもっぱら建築界のゴシップのようなことを話しながら歩いた。 リバディソ・ダ・バイソという村の入り口に立派なアルベルゲがあった。ルドルフたちとここに落ち着くことに決めると、先にドンジン親子が入っていた。寄付金を入れるボックスがあるだけで無人だった。ポケットに入っていた小銭をすべて入れたが5ユーロもなかったと思う。 ルドルフとトマスは一緒にスパゲティをゆでて食べるというので、ドンジン親子と隣のレストランで食事をすることになった。何の仕事をしているのかとドンジンに訊くと、今は何もしていない、帰国したら園芸関係の仕事がしたいといった。 帰国したら日本語の勉強をしようと思うとも彼はいった。別にカミーノで日本人に会ったからという訳でなく、ここに来ているヨーロッパの人たちが、みんな少なくとも隣国の言葉は話せるのを知ったからだという。私が、前に、帰国すればまず韓国語と中国語の勉強だと書いたと同じことを彼も感じていたのだ。彼は中国人の女性と付き合っていて、だから中国語はすでに勉強して話すことができるという。この旅が終わるとパリに戻り、そこでスウェーデンに留学しているその中国人女性と会うことになっているという。アジアにも、国際化、共同体化といった気運は、私たちの知らないところで随分と育っている、そんな印象が一挙に強くなった。ドンジンの話す英語も、少なくとも彼の同年代の日本人には滅多にないのではないかと思うほど堪能なものだった。こんな書き方をすると少し語弊があるかもしれないが、どこの大学で何を勉強したのかと訊くと、高校しか出ていない、その後すぐに軍隊に入ったと彼は答えた。日本にも一度行ってみたいが、そのときは鉄道で行きたいと彼はいった。一部で検討が始まっていると聞く日韓海底トンネルのことを彼はいおうとしたのだろう。巨大な政治的問題、莫大な利権的問題、そして根深い民心的な問題が立ちはだかるそのトンネルだが、彼らの時代には難なく実現しているのかもしれない、ドンジンを見てそんな楽観的な予測をさえ与えられたのだった。 今日の写真 (写真2) (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) バリエーションの幅が広がってきた。 ルドルフによると、この小屋はケルトから伝わったものだという。 (写真7) (写真8) (写真9)
by santiargon2
| 2007-12-22 22:25
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