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終日サンティアーゴ・デ・コンポステラ。
Residencia de Peregrinoから、何人もの人に道を尋ね、それでも迷いつつ、ようやくカテドラルに辿り着いた(写真1~9)。 (写真1) (写真2) (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) これがサンティアーゴ(聖ヤコブ)の像。 入り口の脇にヴェーシェがいた。また相変わらずの満面の笑み。肩を抱き合い、背中を叩き合った。プラザ、あるいはプラタという言葉を彼女は辛うじて発した。自分の泊まっているホテルの名をいいたかったのだろう。 礼拝堂に入ろうとすると、足早に歩く若い女性とすれ違った。思わずマルガリーと声をかけようとした。動きが素早かったので、はっきりとマルガリーと確認できた訳ではなかった。見ていると、女性は階段に腰を下ろし、いきなり自分の膝に突っ伏して泣き始めた。いったい彼女に何があったのだろう。あるいはマルガリーと似ているだけの別の女性だったかもしれない。頭を上げそうにないその様子では、とりつく島もなかった。 礼拝堂で腰を下ろしてみたが、やはりあれはマルガリーだったと確信し、あんなに泣いていたことが気になって仕方がない。外に出てみた。だがもう彼女はそこにいなかった。その代わり、嬉しい二人連れがいた。ペペとカルミ。二人もすぐに私に気づき、どちらからともなく声を上げて抱きついていた。ところが、ペペの肩越しに、なんと広場でドンジンと話すマルガリーの姿が見えた。二人を引っ張って広場に降りた。なぜ泣いていたのかとマルガリーに尋ねた。胸がいっぱいになったからだと、思わず胸をなで下ろすような答えが返ってきた。それはそうだろう。ここまで二千五百キロを彼女は一人で歩き通してきたのだ。 ペペ親分から、まずカテドラルを背にした俺たち夫婦の写真(写真10)を撮れと命令され、それからここにいるみんなの写真(写真11)を撮らされた。 (写真10) (写真11) この後、広場や礼拝堂で、フォンセバドンで一緒だったマティーアス、何度も顔を合わせていた優しげな顔つきのスペイン人の老兄弟、レリエゴスのアルベルゲで出会ったホルヘ、そしてトマスとルドルフにも再会した。後ろから腰をかがめて私の顔をのぞき込もうとしている男性がいたので、振り返ると、ティムとローレンス、アイルランドとベルギーのカップルだった(写真12)。会えば必ず心温まる思いをさせてくれた二人だったので、この予期せぬ再会は本当に嬉しかった。 (写真12) この夜、2泊目のレジデンシア・デ・ペレグリーノではドンジン親子とトマスが一緒だった。夕食は全員の分をドンジンが用意してくれた。ご飯とゆでたエビ、サラダ、韓国風のスープ。トマスはエビを前にして、どうして食べるのかと尋ねた。自分の住んでいるところは海がないのでこんなものは食べたことがないと、とても困った顔をしていた。ドンジンが指先で殻をむき、こうして食べるのだと実演して見せた。その後、アジア共同体の話になった。カミーノを歩いている途中でも、アジア共同体について考えているヨーロッパ人が少なからずいるということは何となく分かっていたが、トマスが意外なほど真剣にこのことを考えていたことを知って驚いた。 食事の後、韓国の若い女性がドンジン親子を訪ねてきた。きのうの宿で一緒だったという。一目見て、すばらしい韓国の女性に出会ったとルドルフがいっていたのは彼女のことだったと分かった。きびきびと動くスマートな容姿もさることながら、実にてきぱきと堪能な英語で彼女は喋った。自己紹介すると、彼女も、アキという名はパコから聞いて知っていたといった。 実にカミーノは、この地球上で、他に似たところさえないであろうような稀有な空間だった。 ノルウェー、アイルランド、イギリス、ドイツ、デンマーク、オランダ、ベルギー、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、スイス、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、南アフリカ、カナダ、アメリカ、ベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、ニュージランド、オーストラリア、フィリピン、韓国、日本。カミーノで私が出会い、少なくとも何らかの会話を交わした人たちの国だ。ここに来なければその半分以上は一生出会うこともなかったかもしれない国の人たち。 パリ郊外の路傍で声をかけてくれた同業者らしき男。アルパジョンのルティ夫妻。エタンプのランニング・シャツを着た男と放蕩息子。オルレアンのホテルの眼鏡をかけたふっくらした男。オロロン・サント・マリーのイザンベール夫妻とステファン、何度も出会ったバスクの男。レスカーで出会ったスイスに住むフランス人女性カップル。ソンポールに向かうつづら折れの道で出会った白髭の大きな老人。ミアノスのペペ・ル・モコと街の人たち。ルエスタで声をかけてくれた鼻歌の男。サングエサの松井夫妻。モンレアルのホセとクリスティーナ、ルドルフ。パンプローナで会ったガイ。プエンテ・ラ・レイナのペルツ氏。ナヘラのボルダッシュ一家。ベロラドで出会ったフアン。ブルゴスで出会ったセサール、アルレッタ。オンタナスのビトリーノ。サーウンで出会ったマルガリー。レリエゴスのホルヘとトマーシュ。ビリャダンゴス・デル・パラーモのレイモンド(とシャワーの湯を使い切ったあのどこもかもが細長かった女性)。フォンセバドンのヴェーシェ。ビリャフランカ・デル・ビエルソのペペとカルミ。アイレセのパコとカルロス。パラス・デ・レイのドンジン親子。この先、折に触れ思い出すであろう人たち。 ただひとつ心残りなのは、フアンとはついに再会することが叶わなかったということだ。だが方策がない訳ではない。いくつかのアルベルゲの管理人が彼ととても親しかったことから、それらのアルベルゲに電話をすれば彼の連絡先が分かるかもしれない。さしあたってスペイン語を話せる人を探さなければならない。と思案していると、ずいぶん身近にその人物がいることに気がついた。子育てのためにペルーに帰郷していた奥さんが近々戻ってくると、米正太郎から知らされた。 取り敢えずこのカミーノ行の話はこれでひとまず終了することにします。でも後日談があればあとしばらくは随時追加していこうかとも思っています。 #
by santiargon2
| 2007-12-31 02:51
リバディソ・ダ・バイソ(Ribadiso da Baixo)⇒アルスア(Aruzúa)⇒ペドロウソ(Pedrouzo)⇒ラバコリャ(Labacolla)⇒モンテ・ド・ゴーソ(Monte do Gozo)⇒サンティアーゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)。約42㎞。
9月10日、気がついたらパリにいたというような、ほとんど発作的に思いついた旅の始まりであったが、行き当たりばったりの無計画はついにそのまま最後まで続くことになった。 今日は手持ちのガイドブックにしたがってペドロウソという街に泊まる予定だった。リバディソ・ダ・バイソから22キロあまり、そして明日、サンティアーゴまでの残りの20キロを歩く。 ペドロウソの街に入る手前にアルベルゲに向かう矢印があった。わざわざアルベルゲと表示されていたので、街の中心から外れたところにアルベルゲがあるのだろうと思い、その矢印の方には向かわず、そのまままっすぐに進んだ。今夜も安いホテルを探すつもりだった。林の中に入ったが、すぐに市街地に抜けるのだろうと思った。ところが木立は深くなるばかり、やがて上り坂になり、いつの間にか市街地などとは縁遠い山道になっていた。さっきの矢印通りに向かうべきだったと思ったときはもう十分以上に進み過ぎていた。 とはいえ、次の宿泊施設のある街はサンティアーゴの直前のモンテ・ド・ゴーソである。最後、サンティアーゴにどう入るかを検討していて、ペドロウソとモンテ・ド・ゴーソの間が極端に大きく開いているということは頭に入っていた。ガイド・マップによれば15.7キロ。おそらくこのルート上で最も大きく開いている区間といっていいだろう。その区間を歩き通してモンテ・ド・ゴーソまで行くのなら、あと4キロあまり歩けばサンティアーゴである。 というようないきさつを経て、午後7時半ごろ、サンティアーゴ・デ・コンポステラに到着した(写真1)。計画も何もあったものではない。 (写真1) 涙で滲むカメラ(ウソ)。 街を見下ろす高台からまずカテドラルの位置を見定め、おもむろにその方向に向かっていく。行き交う人々の尊敬と歓迎の眼差しが、私の全身に痛いほど突き刺さってくるだろう。それくらいは仕方のないこととして大目に見なければなるまい、何しろ総計1千キロ以上の道のりを歩いてきた私はいわば英雄なのだ。というようなストーリーを想い描いていたのだ。 ところが、すっかり日暮れて暗く、街は予想していたより遙かに大きく、カテドラルの位置はおろか黄色の矢印さえも見えなくなっていた。行き交う車こそ多けれ、歩行者にも滅多に出会わない。足の裏全体が火傷をしたように痛く、お腹はたまらなく空き、いくら歩いても市街地にも届かない。疲れ果て、アルベルゲを探しあぐねてようやく出会った男性が、おそらくここだろうとわざわざ15分ほど歩いて戻って案内してくれた。確かに彼には尊敬と歓迎の心意気はあったというべきだろう。だが、普通なら必ずあるはずの、そしてこの最終地点のサンティアーゴ・デ・コンポステラならなおさら目立っていていいはずの黄色の矢印もなく、アルベルゲの表示さえもそこにはなかった(写真2、3)。見逃して当然のへんぴなところにそれはあった。それにしても、一時は10キロが精一杯だったこともあるこの痛い足を駆って、なんと私は今日、42キロも歩いてきたのだ。なのにこの冷たさは何なのだ。街を挙げての大歓迎が私を待っているはずだったのに、いったいこれはどうしたことか。 (写真2) (写真3) というようないきさつを経て、ようやく、今夜の宿、Residencia de Peregrino(レジデンシア・デ・ペレグリーノ、巡礼者の家)に着いた。今夜だけは何はともあれアルベルゲだ、サンティアーゴでは3泊まで許されていると聞いていた、だから今までに知り合った多くの人たちとここで再会できる。もうみんなさぞかし盛り上がっていることだろう。 大規模な宿泊所にふさわしく、レセプションと表示された場所に、カイゼル髭を生やしたいかにも威厳のある中年男性が待ち構えていた。案の定、何泊したいのかと訊かれ、シーツ2枚と枕カバーの入った袋と毛布、それにロッカー・キーを渡された。アルベルゲでは唯一の例外である複数泊が許されているため、ロッカーまで用意されていたのだ。しかもシーツ2枚ということは、最後だけは寝袋から解放してやろうという心づくしまで用意されているということだ。これでみんなが大騒ぎしているところに飛び込んでいく準備は整った。 宿泊室に向かう前に、心づもりをしておくために、今夜は何人ぐらい泊まっているのかと男に尋ねた。 男は答えた。You,only you(写真4). (写真4) このような部屋が2室ある宿泊棟が二つ並んでいた。キッチンと食堂もずいぶん 広々としていて、食堂には他のアルベルゲでは決して見なかったTVまであった。 もちろん暖房完備。 #
by santiargon2
| 2007-12-31 02:34
パラス・デ・レイ(Palas de Rei)⇒レボレイロ(Leboreiro)⇒メリデ(Melide)⇒ボエンテ(Boente)⇒カスタニェーダ(Castañeda)⇒リバディソ・ダ・バイソ(Ribadiso da Baixo)。約24㎞。
7時45分頃バルに行くと、まだ開いていなかった。8時になっても開く気配がない。部屋代をまだ払っていず、鍵も返さなければならない。8時15分まで待って部屋に戻った。サンティアーゴまでまだあと数百キロというようなところでは、目的地は現実離れしたものでしかなかったが、歩いて行くに現実的な距離になってからはなんとなく急ぎたいという気分が強くなっていた。あと30分も待てばバルは開くかもしれないが、その30分が待ちきれなかった。これまでの経験からこの部屋では25ユーロで十分だと思ったが、念のため2泊分60ユーロを椅子の上に置き、その上に鍵を載せて部屋を出た。 歩き出してすぐ、きのうの夜、食事が終わってレストランを出ようとして出会った韓国人親子に追いつかれた。あす、次のアルベルゲでゆっくり話しましょうといって別れたのだが、その機会が早くもやってきた。28歳の青年とその母親。レストランで顔を合わせたときは、どちらからともなく英語で話しかけ、すぐにそれしか通じないことが分かった。 後半の行程に入った頃から、韓国のあるTV局がかなり大規模な取材に来ていて、よくその噂を聞いていた。彼らの通過した数時間後に私がその場所に着いたというのがおそらく最も接近した時であった。それだけでなく、アルベルゲに残されている記念帳などにも、ハングルで書かれたものの方が日本語のものよりもかなり多いというような印象があった。 青年はドンジンといい、母親が来たいからというので一緒に来てあげたという。韓国ではキリスト教徒の割合が70パーセントあり、この巡礼のことも日本よりはずっとポピュラーな存在になっているのだろう。ドンジンの母親もクリスチャンで、彼には牧師になって欲しかったらしいが、彼はキリスト教が大嫌いだといっていた。母親はにこにこしているだけだったが、やはり足が相当に痛そうだった。(写真1) (写真1) 母親は痛い足を引きずりながらなんとかドンジンの後をついて歩くというような風情だったが、その速さにさえも私はついていくのが辛く、しばらくして二人から離れた。だがすぐに、その私が追い越そうとしてしまうほど疲れ果てたような歩き方をしている男性に出会った。いつか、大きな声で大丈夫かと声をかけられたときの私もさもありなんといった歩き方だった。ドイツ人で、トマスという名の30代半ばの男だった。 メリデという街に着き、どこかで食事をしようとした。パコが、この街に着いたら忘れずにタコ料理を食べるようにと店の名前まで教えてくれていたのだが、なにかの行事でもあるのか、街全体がとても賑わっていて、タコ料理の店も満員だった。仕方なくトマスと一軒のバルに入った。私はスパゲティを注文し、トマスはピザを頼んだ。トマスは役者をしているという。表の方ばかり気にしているのでどうしたのかと訊くと、この街でルドルフという男と待ち合わせることになっているという。建築家だという。 てっきり私よりずっと先を行っていたと思っていたのだが、ルドルフはバルセロナで10日間ほど過ごしていたのだという。いくらカミーノでもこんなことは珍しいだろう、1ヶ月以上も間のあいた再会だった。モンレアルで会ったときはまだベルリンでの仕事のトラブルが尾を引いていたのか、どことなく沈んだような雰囲気だったが、カミーノを歩く間にそれも癒えたのだろう、ルドルフはとても明るくなっていた。韓国のTV局の取材に一日付き合わされ、インタヴューも受けたといっていた。自分よりずっと若そうなトマスともよく気が合うようだった。私にはもっぱら建築界のゴシップのようなことを話しながら歩いた。 リバディソ・ダ・バイソという村の入り口に立派なアルベルゲがあった。ルドルフたちとここに落ち着くことに決めると、先にドンジン親子が入っていた。寄付金を入れるボックスがあるだけで無人だった。ポケットに入っていた小銭をすべて入れたが5ユーロもなかったと思う。 ルドルフとトマスは一緒にスパゲティをゆでて食べるというので、ドンジン親子と隣のレストランで食事をすることになった。何の仕事をしているのかとドンジンに訊くと、今は何もしていない、帰国したら園芸関係の仕事がしたいといった。 帰国したら日本語の勉強をしようと思うとも彼はいった。別にカミーノで日本人に会ったからという訳でなく、ここに来ているヨーロッパの人たちが、みんな少なくとも隣国の言葉は話せるのを知ったからだという。私が、前に、帰国すればまず韓国語と中国語の勉強だと書いたと同じことを彼も感じていたのだ。彼は中国人の女性と付き合っていて、だから中国語はすでに勉強して話すことができるという。この旅が終わるとパリに戻り、そこでスウェーデンに留学しているその中国人女性と会うことになっているという。アジアにも、国際化、共同体化といった気運は、私たちの知らないところで随分と育っている、そんな印象が一挙に強くなった。ドンジンの話す英語も、少なくとも彼の同年代の日本人には滅多にないのではないかと思うほど堪能なものだった。こんな書き方をすると少し語弊があるかもしれないが、どこの大学で何を勉強したのかと訊くと、高校しか出ていない、その後すぐに軍隊に入ったと彼は答えた。日本にも一度行ってみたいが、そのときは鉄道で行きたいと彼はいった。一部で検討が始まっていると聞く日韓海底トンネルのことを彼はいおうとしたのだろう。巨大な政治的問題、莫大な利権的問題、そして根深い民心的な問題が立ちはだかるそのトンネルだが、彼らの時代には難なく実現しているのかもしれない、ドンジンを見てそんな楽観的な予測をさえ与えられたのだった。 今日の写真 (写真2) (写真3) (写真4) (写真5) (写真6) バリエーションの幅が広がってきた。 ルドルフによると、この小屋はケルトから伝わったものだという。 (写真7) (写真8) (写真9) #
by santiargon2
| 2007-12-22 22:25
終日パラス・デ・レイ(Palas de Rei)。
きのう、Pensiónと併記されたバルがあったので、2泊したいと頼んだ。よくあることだが、そのバルと同じ建物でなく、5分ほど歩いたところに部屋はあった。主人がスペイン語でしきりに何か伝えようとしているが、こちらはまったく分からない。ついに最後には苦笑しながら、O.K、ノー・プロブレムといった。バルはインターネット・カフェも兼ねていたので、後でそこに行くと、カルロスがいた。挨拶をしてコンピュータの前に座っていると、主人と何か話していたカルロスがそばにやってきた。このバルは明日の朝8時から10時までは開いているが、その後は閉まることになっている。あさって日曜日は休み。だが月曜日は朝から開いているので別に問題はないと、なんとか不得手な英語で伝えてくれた。 外はひどく寒く、部屋のヒーターはずっと暖かいままだった。 遊びをせんとや生まれけむ。 4年ほど前、ポルトガルのポルトという都市で、レンタカーを借りて街中を動き回っていて、とても感心したことがある。1月中旬の日曜日だったが、ぽかぽかと暖かかったせいか、どこへ行っても街は人々で溢れていた。ドウロ川の川べりには釣りをする人々が連なり、そのそばをグループでツーリングする自転車が次々と駆け抜けていった。あまりに本格的な自転車と本格的なウェアを着用した人ばかりだったので、特別なレースが行なわれているのかと勘違いしたほどだった。対岸の河川公園のようなところでは10人乗りぐらいのレガッタ用ボートを浮かべようとしている人たちもいた。とりわけ驚いたのは、海浜公園の夕方の光景だった。ボード・ウォークの上を大量の人々が歩いていて、台風の時のような大西洋の大波がそばの岩礁にまで打ち付けていた。しかも彼らのほとんどが、普段着でなく、ちゃんと身なりを整えていた。あんな不思議な光景は見たことがなかった。 パリの日曜日の午後、ルーブル美術館前の広場、ガラスのピラミッドのそばで休憩をしていると、とんでもない光景が目の前に繰り広げられた。突然、さまざまな扮装を凝らした人々が、ローラー・スケートで滑りながら次々と広場に入ってきた。延々とその列は続き、広場はたちまち整列する人々で埋まっていった。その数はたぶん千人は下らなかっただろう。しかも信じられないことに、その群衆を先導していたのが、同じくローラー・スケートを履いた警官だった。 ニューヨークの日曜日、セントラル・パークは、平日には足を踏み入れるのをためらわれるような治安のよくなさそうなところまで人々でいっぱいになる。ジョギング、サイクリング、ローラー・スケートをする人たち、ボートを漕ぐ人たち、ラジカセ持参でダンスをする人たち(アルバニア出身の人たちが民俗舞踊を踊っていた)。ホテルに戻ろうとすると、驚くような二人連れに出くわした。白黒の千鳥格子模様の同じスーツで正装し、同じバッグを持った双子の老女だった。とてもにこやかな笑顔をまわりに振りまいていて、これからみんなを驚かせてやろうとセントラル・パークに向かおうとしているところだった(と思えた)。 たとえば大阪の日曜日。道頓堀や心斎橋筋も多くの人々で溢れかえる。その人数は、上に述べたどの都市よりも多いといっていいかもしれない。ユニヴァーサル・スタジオや東京のディズニー・ランドなども、相変わらず多くの人々でにぎわっていることだろう。だが、日本での光景と上の諸都市との間には、もう決定的な違いがあるといわざるを得ない。テーマ・パークなどで遊ぶ人々はもとより、道頓堀や心斎橋筋を歩く人々も、いずれは必ずいろんな店やデパート、レストラン、映画館などに吸い込まれていく。これが日本の都市生活者の日曜日の実態だ。つまり、ショッピングや食事、映画鑑賞を楽しむ人たちは、その楽しみを得るために、必ず、それに見合った対価を支払わなければならず、対して、上の西洋の諸都市で日曜日の都市生活を楽しむ人々は、対価なるものをほとんど支払う必要のない行為にいそしんでいる。これは前にも述べたことだが、西洋の人たちの自然に対する態度は、日本(東洋)人とは根本的に異なっていて、それが日曜日の過ごし方の違いにもなって現れているのだ。 だからといって、西洋人の日曜日の遊び方を我々も見習うべきだと私は言いたい訳ではない。私自身、できることならば、日曜日は静かにゆっくりと過ごしたい。ただでさえ疲れているのに、もっと疲れるために自転車に乗ったり、まして音楽に合わせて踊りたいなどとは夢にも思わない。もちろん、無駄にお金を使うためだけに街に出て行くということなど、もっとやりたくないことだが。 たとえばヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワが説いたように、遊びという行為は、人間存在にとって極めて本質的かつ重要な部分を占めている。そしてもちろんこれは、彼らが西洋人だから西洋人だけに当てはまるということではなく、東洋の人間にとってもそれは同じことだろう。人間の行為のあらゆる局面に遊びという要素は見いだされるのであり、したがって自然の中で体を動かすことだけが正しい遊びであるという訳でもなく、TVの前でごろごろするという行為にも遊びの本質というものはいくらも隠されているだろう。 そんなことを言いながらも、何百キロも歩く旅に私は出てきてしまった。それぞれいろんな動機や目的があるとはいえ、自然の中で肉体を駆使して歩き続けるという行為に無上の歓びを見いだしているということに関しては、いまこのカミーノにいる人たちにおそらく一人の例外もなく、そしてなんと私もそうである。とはいえ帰国したらまたもとの生活に戻ることも確実なことだろうが。 ガリシア地方の石の写真(写真1、2、3、4、5)。 (写真1) (写真2) (写真3) (写真4) (写真5) ガリシア地方特有の穀物倉庫(写真6)。 (写真6) この規模からすると、収穫した穀物を貯蔵するというものでなく、来年の種とし て使用するものを貯蔵しておくためのものなのだろう。おそらく富を現わす、相 当に象徴性を帯びたものも多く見られた。 あの向こうにサンティアーゴ(写真7)。 (写真7) #
by santiargon2
| 2007-12-20 11:57
ポルトマリン(Portomarín)⇒ゴンサール(Gonzar)⇒オスピタル・デ・ラ・クルス(Hospital de la Cruz)⇒アイレセ(Airexe)⇒パラス・デ・レイ(Palas de Rei)。約24㎞。
歩き出してしばらくして、にこやかな表情をした男性と一緒になった。まったく言葉が通じなかったが、それでもセゴビアという都市でホテルを営んでいるらしいこと、名前をパコというスペイン人だということが分かった。ステッキで地面を引っかき回すような仕草をしながら、しきりにテルモトとかテラモトとかいう言葉を発し、何かを尋ねようとしている。これまでは言葉は通じなくても仕草や片言の単語で何とか理解できる場合が多かったが、さすがにこのときは分からなかった。知り合いにテルモトかテラモトという日本人がいるのだろうか、だとしても地面を引っかく意味が分からない。電子辞書を取り出し、まずそれが辞書であることを示し、そこに知りたいことを打ち込むようにと手渡した。terremoto(テレモート)と打ち込んだ。地震という意味だった。日本語で何というのかと尋ねていたのだった。 オルレアンのホテルに忘れてきた電子辞書にはその機能はなかったが、新しく買って送ってもらったものには音声で読み上げる機能も付いている。それを聞かせると彼はのけぞるように驚いた。これを聞かせると、やっぱり日本だというか、さすが日本だというか、ほとんどの人はそういった反応を見せる。日本以外、こんなものを作れる国はないと半ば呆れ、自分の国では到底無理だというあきらめのような感慨までそこに付いてきた。 パコの歩く速度についていくのが大変だったので、このときはすぐに別れた。だが昼過ぎ、アイレセという村のバルを通り過ぎようとした時、パコがわざわざ中から出てきて私を呼び止めた。カルロスと名乗るもう一人の巡礼者と一緒にテーブルについていた(写真1)。パコが美味しそうなスープを注文していたので、私も同じものを頼んだ。ガリシア地方の名物らしく、ジャガイモと菜っ葉(としかいいようがない)、白インゲン豆が入っている。一見味噌汁とそっくりで(もちろん味噌の味などしなかったが)、とても美味しかった。 (写真1) 左がパコ、右がカルロス。 カルロスはマドリッドから来たという。彼も英語はほとんどできなかったが、いくつか私に質問しようとした。極東の国からひとりでこんなところにまで何百キロも歩きに来た私のような存在が彼の腑に落ちなかったのだろう。だが肝腎な英単語が出てこない。パコが私に手真似で電子辞書を出すよう催促した。以降、電子辞書を通じて我々は会話を行なった。まずカルロスは私にクリスチャンなのかと尋ねようとしていた。次に、なぜここに来たのかと尋ねた。二人ともやはり深刻な表情になってしまった。 パコは電子辞書を非常に気に入ってしまい、メーカーと品番をメモし、日本ではいくらで買えるのかと私に尋ねた。多分200ユーロぐらいだというと、スペインで買えば500ユーロぐらいになるのかなというようなことをいった。インターネットで買えばどこでも同じ値段だろうと私は答えた。 この日、パコと出会ったことによって、二つの事柄が私の中で大きな問題として浮上した。 その一つ。 電子辞書に代表されるように、日本は、考え得るあらゆる利便性というものを、テクノロジーによって実現しようとする国であるということ。普通の旅行とは違い、多少なりとも現地の生活の内部に触れることができるような旅をしていると、テクノロジーを生活の水先案内人とする日本がいかに特殊な状態にあるかということが痛感される。多くの日本人にとっては、それらテクノロジーのおおもとを生み出してきた当人たちの生活がそうなってはいないということの方がむしろ理解しがたいことではあるのだろうが。 電子辞書はもとより、シャワー・トイレ、浴室乾燥機、ミスト・サウナ付きユニット・バス、電磁調理器、アルカリ・イオン整水器、マイナス・イオン発生装置。この3ヶ月でその片鱗にさえ触れることがなかったテクノロジーの産物が日本には溢れている。もちろんここに挙げた器機類の過半を私も使用しており、それらを欠いた生活がいかに非利便的であるかということを痛感する日々でもあったことを、私は付け加えておかなければならない。 とはいえ、利便性というものを追求するテクノロジーが、もはや自己目的化し、自己増殖するような段階に日本は入っているのではないか、そのような反省的視点もこの旅で与えられた。日本では、必要は発明の母ではとうになくなり、発明が必要の母になっているのではないか。余剰のテクノロジーがかつてはあり得なかった需要を生み出している、そんな段階におそらく日本は入っている。だからといってそれが望ましくない状態だと私に言い切れる訳ではないが。 しかもパコが電子辞書を欲しがったように、シャワー・トイレや浴室乾燥機、ミスト・サウナ付きユニット・バスなどといった利便的機器類を目の当たりにすれば、ほとんどの西洋人もそれらを欲しがるであろうことはほぼ間違いないように私には思える。にもかかわらず、なぜ日本にだけそれらは生み出され、彼ら西洋人にはできなかったのか、あるいはしなかったのか。 その答えの一端を、イザンベール夫妻の生き方に見ることができるのではないかと私には思える。寒い部屋、暗い室内、傾いた床。その非利便性にこそ精神の安逸を求めようとする確かな姿勢。いや、非利便性などという否定的語彙で表すべきものでなく、人の生の名付け得ぬ暗くて重い何か、そのようなものがイザンベール邸には横溢していた。だがあくまでもこれはたまたま見いだすことができた答えの一端と私が思うものであり、他の答えに易々と飲み込まれてしまうほどに心細いものであるのかもしれないが。 もう一つ。 パコが注文していたガリシア地方特製のスープ。その後、ガリシア地方にある限り、このスープ、カルド・ガリェーゴが出てきた。塩加減の多少の違いこそあれ、私が飲んだ(食べた)カルド・ガリェーゴは、こと食材に関する限り、すべて寸分違わず同じものが用いられていた。これがガリシア地方に限定される話だとすれば、では同じように関西と限定して、関西で味噌汁といわれている汁物に、いったいどれだけの数の食材が用いられているだろうか。 以上の二つの問題は、きっと、同じ根拠に発していて、おそらくそれはスペインと日本両国、というより西洋諸国と日本の文化の違いの基本をもなしていて、当然それは、両者の建築を違えてきた根拠でもある。 今日の目的地、パラス・ド・レイ(レイの宮殿)に着いて、泊まるところを探していると、アキーと私を呼び止める大きな声が聞こえた。ベネズエラの男性、ペペが観光バスから降りてくるところだった。私の肩を抱き、足の具合はどうかと繰り返し尋ねてくれた。もうほとんど大丈夫だと答えると、それを聞いて安心したというようなことを言った。文化の違いによる社交辞令のようなものと分かってはいても、カラカスのオヤブンというような風情を放っている彼からそういわれると、一気に心が緩む思いがした。 奥さんのカルミはどこにいるのかと尋ねると、この先のメリデ(Melide)という街で休養している、今日は一人でこの街に観光にやってきたと話した。 今日の写真。 (写真2) 滅多に見かけることのなかった小規模リゾート・ホテルのような宿泊施設が あった。 (写真3) 同宿泊施設。右のさしかけ小屋のようなものは、さしずめ日本でならその 下に露天風呂があるような雰囲気だったが、もちろんそんなものがあるは ずはない。 (写真4) (写真5) (写真6) (写真7) (写真8) (写真9) #
by santiargon2
| 2007-12-17 02:36
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