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終日サリア。
さすがガリシア地方。朝から雨が降り続いている。危惧していたとおり、部屋のヒーターは一向に暖かくならなかった。どんなホテルやアルベルゲのヒーターも、蒸気が通っていなければツマミを回しても何の意味もない。そのツマミさえ外してあるところも多く、すべて蒸気が送られているかどうかにかかっている。結局、今日は一日中、蒸気は送られていなかった。だから毛布をかぶったままでパソコンに向かった。 今日は通常の日記とは異なり、この旅の間にいつかは書かなければと思っていたことを書く。 先日、山中の路で、奇妙な動きをする小鳥がいた。最初はスズメかと思ったのだが、こんな山の中にスズメがいるはずはない。たぶんヒバリだと思うのだが、ヒバリがあんな習性を持っているのだろうか。気がつくと私の歩く5,6メートル先にいて、近づくと、また少し前方に飛び、ということを5,6回ほど繰り返し、やがてどこかに飛び去った(写真1)。まるで斑猫(はんみょう)のような動きだった。 (写真1) 斑猫を初めて見たのは屋久島でだった。山道を歩いていると、瑠璃色に輝く美しい昆虫が、先導するように常に2メートルほど先を飛んでは地面に降り、飛んでは地面に降りを繰り返していた。さっきのヒバリはすぐにどこかに飛んでいったが、斑猫は15分や20分は同じことを繰り返していたように思う。 この斑猫の習性を小説の導入部に巧みに用いたのが安部公房の『砂の女』だった。斑猫採集に来た男が、その斑猫に導かれ、いつしか砂に埋もれかかった村に入り込んでいた。男は、ある女性の家に半ばとらわれの身となり、その村から抜け出せなくなり、カフカ的不条理の世界にはまりこんでいく。勅使河原宏の映画の砂の圧倒的な映像も、そして武満徹の音楽もすばらしかったが、モノクロームだったためか斑猫の宝石のような美しさは表現されていなかったように思う。 この安部公房の文学が表現するいわばカフカ的不条理の世界と、それに対して三島由紀夫の文学が表現する伝統や秩序を重んじた世界。1970年代、日本の若手建築家たちの作る住宅作品を、この二人の作家の作風になぞらえて分析しようとした英国人がいた。人間の生活を節々で支える様々な儀式。その儀式にこそ人間存在の本質が凝縮されているという人類学的見地に立って彼は建築を論じようとした。 そうした儀式というものを頭から度外視し、あるいは拒否し、無機的で乾いた空間を目指そうとする住宅群を彼は反儀式派(Ritual disaffirming houses)と名付け、このグループの特性を安部公房に代表させた。一方、生活や伝統文化を重んじる親儀式派(Ritual affirming houses)、このタイプを三島由紀夫に代表させた。 先日、バブル経済以降の日本の現代建築は救いようのない絶望的な状態に陥っているというようなことを書いたが、少なくとも戦後、日本の建築には何度か世界に誇るべき独自の活発な時代があった。50年代から60年代前半にかけて、丹下健三が日本各地の公共建築を手がけていた時期(東京オリンピックの代々木体育館でそれは頂点に達する)。菊竹清則、黒川紀章、槇文彦らのメタボリズム・グループが近未来的な計画案をそれぞれに発表し、なんとかそれを実作に反映させようとしていた60年代。そして多くの若手建築家たちが競い合うように意欲的な住宅作品を世に問うていた70年代である。 丹下とメタボリズム・グループの作業は国際的にも認知されていたが、70年代の若手建築家たちの作業は、どれも極めて小規模なものばかりであったため、しかもそれらの中にはデザイン的に洗練されているとは言い難いものも少なくなかったため、国際的に広く知られるというようものではなかった。だが、今振り返ってみても、世界のどこにも類のない意欲的な住宅が陸続と発表されていた時代であった。住宅を単なる一つの建物としてだけでなく、住む(棲む)という行為、ひいては生きるという行為そのものを根本的に問い直そうとする建築としての試みが多くなされた。こういう点で、文学や哲学にも通じる回路が建築に開かれたといっていい。 このような住宅の作り手を次々と発掘し、というより先導していたのが、68年に創刊された雑誌『都市住宅』の編集長、植田実(うえだまこと)であった。他の建築雑誌の編集者がおおむね工学部建築学科出身であったのに対し、植田は早稲田の仏文出身であった。だが彼の兄も有名建築家であり、日本の近代建築の歴史的存在といってもいい山口文象の設計した住宅に住んでいたこともある植田だから、建築的素養が十分にあった上での文学者的眼差しである。この時代、実に新鮮な力が、若手を中心とする日本の建築界に渦巻いていた。ただただ明るくて便利で清潔な住むための器。戦後モダン・リビング思想を支えてきたこのような住宅観を問い直し、人間存在を受け入れる容器、あるいは社会という共同体を構成する最小単位としての家族制度というものをはぐくむ装置、このような見地から住宅を捉え直そうとする建築家たちが輩出した。 国際的、歴史的に見ても、このような動きがあったのはこの時代の日本をおいて他にはなかったといってよい。また植田実がいなければ、70年代以降の日本の建築史はまったく違ったものとなっていただろう。偉大な建築家が建築の歴史を変えたのではなく、偉大な編集者が建築の歴史を変えたのだ。これも特筆すべきことであった。 こうした日本の動きにいち早く注目し、ニューキャッスル大学を休学してまで日本にやって来ていたのが件の英国人、クリス・フォーセットであった。そしてそのフォーセットが植田の前に現れた。東京での生活の糧の足しにとやっていた英会話の個人授業を、植田が受けることになったのである。私の知る限り、二人の出会いには必然的な要素もなくはなかったが、ほとんどは偶然の成り行きであった。植田は、フォーセットの持つただならぬ知性、教養、批評力、そして何より西洋から来た人間としての立場を一歩も踏み出ることなく日本の現代建築や現代文化を見ようとするその眼差し、それに驚いた。それまでにも、日本の現代建築に注目し、その批評を試みる西洋人もなくはなかった。だがそうした人たちは、おおむね、批評すべき当の日本文化の中にのめりこみ、結局はそれに飲み込まれた視点からしか論じることができなかった。クリス・フォーセットは一貫して外部からの視点で、客観的、冷ややかに、日本の現代建築や文化の持つ西洋とは異なった点を見つめようとした。 植田はフォーセットに、『都市住宅』誌で2本、大きな論文を書かせた。フォーセットがまだ23歳の時のことである。(この稿続く。) 今日の写真。 この日も写真は一枚も撮らなかったのでここしばらくの拾遺。 (写真2) この農家を見たとき、思わずひょうきんという言葉が浮かんだ。 (写真3) 相変わらず栗林が何日も続いている。何十万、何百万という栗の 実の上を私は通過してきた。 (写真4) サモスの修道院で修復作業を行う女性。 (写真5) サモス修道院のそばにあったプレ・ロマネスク(9世紀)の エルミータ(小聖堂)。 (写真6) サモスからサリアに向かう途中の村にあった同じくエルミータ。 (写真7) (写真8) オ・セブレイロの手前で出くわしたロバに乗る男。何時間も一人に も出会わず歩いていたとき、いきなりカウ・ボーイのようなかけ声 と共に現れた。 (写真9)
by santiargon2
| 2007-12-14 04:11
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